(本ブログは月水金に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:昨日は娘夫婦の長男の命名行事ということで、婿殿のご両親と会食をしました。写真は娘夫婦の住いへ行く途中の谷中銀座通りの賑わいです。この近辺はお寺が多い。昨日はお彼岸です。日暮里からの道は墓参に向かう夥しい数の人出でした)
谷中銀座1837


 チャンバラの 映画ドラマに 登場す 江戸の名残を 残せる谷中

 鬼平犯科帳はじめ 江戸を主要な舞台とするチャンバラ映画、舞台に頻繁に登場するのが、谷中です。文字通り日暮里駅を含む台地と、本郷駒込を載せる台地に挟まれた窪地です。まさに谷の真ん中です。ここに立ち並ぶ商店街は江戸時代から昭和の風情をとどめています。イカ焼き、メンチカツなどの揚げ物、煎餅などの和菓子屋などに墓参する人たちの長い行列が出来ていました。写真はこの窪地から東側にレンズを向けています。五十年以上の大昔には正面の高層ビル群はありませんでした。このビル群の裏側が、本郷・駒込の台地です。

(写真:娘夫婦宅からの帰途、近くの駒込・六義園を散策してきました。庭園内では、かわいらしい娘さんが三味線に合わせての見事な大道芸を演じていました。)
六義園1843


 柳沢吉保がこの地に「回遊式築山泉水庭園」を完成したのが1702年と案内板は書きます。江戸城殿中松之大廊下で赤穂藩藩主・浅野長矩(内匠頭)が高家肝煎・吉良義央(上野介)に刃傷に及んだのが1701年、「赤穂四十七士」(あこうしじゅうしちし)は、紆余曲折のすえ元禄15年12月14日(1703年1月30日)未明に本所・吉良邸への討ち入りに及び、見事その首級をあげたのが1703年です。まさに柳沢吉保が、赤穂藩残党の挙動に目を光らせていた時期にこの庭園が完成したというわけです。

+++++原発事故関連記事・二題
 前橋地方裁判所が画期的な判決を下しました。上級審でもこの判決が維持されるのか否か。日本国の裁判制度の政界癒着を反映するかのごとき判断に変質するのか。 
(新聞記事:3月18日付日刊ゲンダイ紙より)
福島訴訟170318

%%%%%未だ行方不明の核燃料
 水中で毎時1.5シーベルト=1号機格納容器底1メートル―ロボット投入・福島原発
時事通信 3/19(日) 17:59配信原子炉内ロボット探査 

 東京電力は19日、福島第1原発で溶け落ちた核燃料(デブリ)がたまっているとみられる1号機格納容器底部の水中で、毎時1.5シーベルトの放射線量を測定したと発表した。水中で比較的高い線量が確認されたが、東電はデブリの有無について「今回のデータでは明らかになっていない」と説明している。東電によると、毎時1.5シーベルトの放射線量は18日に投入したロボットが作業用足場からつり下げた線量計によって測定。測定場所は格納容器底部から1メートルの高さの水中で、同じ線量を人間が浴び続ければ、5時間弱で死亡するほどの値だった。水は放射線を遮る性質があり、近くに高い線量を出す物が存在している可能性もあるが、原因は分かっていない。東電が公表した写真では、水中にポンプのバルブとみられる物も写っていた。格納容器底部に堆積物があるかどうかは不明で、今後周辺の放射線量などを測定し、デブリの有無を調べる。
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+++++村井氏の地震予測(3) 
 東北日本の太平洋沿岸沿いの深部(およそ50km程度の深さ)にプレートの断裂帯が横たわっているらしいことを前回書きました(図1:前回記事の再掲)。地震活動分布で見る限りこの断裂帯として、三つが識別できます。それを図1でA,B,Cと名づけています。
 断裂帯Cについては、本ブログ管理人は「チバラギ地震(あるいは霞ヶ浦―市原地震帯)と名づけこれまでも精査してきました(2,014年10月6日記事チバラギ地震)。この地震活動は現在も監視していますが、破壊面が鉛直で、かっての大地震での傷であると考えています。

(図1: 震央分布については、左右の図は全く同じ。左はその震央分布に(地下断裂帯 3月18日記事)に、断裂帯と思われる帯を重ねたものです。全ての図に共通しますが座標系は2013年10月26日の二本海溝東沖のMw7.7地震の震央を原点として作図されています。図の目盛りはkmです)
170317断裂地震



 この二つの断裂帯はどうやら3月11日のあの巨大地震前には、地震学者たちの前に姿を現していなかったようです。それを示すのが図2です。巨大地震発生前2ヶ月半の活動状況ですが、図1と比べることで、明らかです。但し、この非活動状態は、巨大地震発生直前に見られる「静穏状態」であると考える学者さんもいるようです。

(図2:2011年1月1日から2011年3月11日14時47分の期間内の東日本の地震活動(Mjga 4.5 又はそれを超える地震のみ)。データは気象庁による。黒丸は青の巨大地震)
201101-0311


 宮城県沖に見られる活発な地震活動のほとんどは2011年3月9日、ほぼ巨大地震の二日前に始まった、まさに前震活動です。そこで、この活発な地震活動をもう少し詳細に眺めることにします(図3の左)。

(図3:宮城県沖に焦点をあてた2011年1月1日から本心までの地震活動 2月27日記事 (2月27日記事掲載図に加筆)
170320bf311


 まずは右上の図です。
 図3の左は宮城県沖の地震活動です。期間は2011年1月1日から2011年3月11日14時47分(本震の直後)までです。この地震活動を図のように矩形で囲み、辺ABに沿って眺めることにします。この地では、プレートは海溝に直交(AD)する方向に沿って地震活動を眺めるのが通例です。そうすることで、プレートの潜り込み状態が見えてくることが期待されるからです。しかし、本ブログでは、あえてそうはせず、海溝軸に沿った方向に沿って事態を眺めようと言うわけです。

 右上図は矩形内の地震分布をABを含む鉛直面に投影し、地震の深さを辺ADからの距離に対してプロットしたものです。左端の黒角(311巨大地震)に着目すると、地震の深さが右へ行くほど深くなっている、つまりB方向に震源の深さが20kmから40kmと系統的に深くなっている様子が見えます。

 次に右下図を眺めます。ここで真左端上の黒角は311巨大地震です。横軸は右上と同じで、辺ADからの距離(km)です。縦軸は2013年10月26日(Mw7.7)地震の発信時からの時間経過です(単位は日―day)。青の点線矢印で示したように、25日ほど前の2011年2月16日1時にMw5.5の地震が起きています。その地震を基点として地震が右上方にほぼ直線状に移っていることが明瞭に認められます。そしてその終端で2011年3月11日の地震に繋がっています。

 既に書いたように2011年1月1日から同年2月16日までは全くの地震学的静穏状態です。そしてこの日に起きた地震がゆっくりとA方向、つまり南西方向に移動し、311の地震になったようです。この移動スピードは図から2.5cm/sec程度と見積もることが出来ます。

 あの巨大地震のほぼ25日前に深部40kmでの地震が、どうやら311地震の直接の引き金を引いたと思えます。そこで、前回紹介した村井氏の地震予測と照合してみます。
(図4:村井氏による地震予測、前回記事再掲)
村井170313Cebd1d2f8

 村井氏は本震の二ヶ月前に何やらの異常が認められると書きます。一ヶ月のずれがありますが、話の筋はあっているように見えます。しかし、2月16日の地震は宮城沖200kmです。それほど遠方のしかも40kmもの地下深部の出来事を宮城県地上のGPS 観測装置が検知できるものだろうか?疑問があります。地球を弾性体と思うと、とある場所での変動は距離の三乗で小さくなります。とすれば、それを宮城県の地上の観測点が検知するとは、思いがたいからです。次回、この2月16日の地震を検討してみたいと思います。
(つづく)