(本ブログは月水金に更新されます。コメントはmytube20062000@yahoo.co.jp へ)
(写真:灼熱の太陽の下、恐山(おそれざん)入口を流れる「三途の川」にかかる橋をトボトボと渡る現ブログ管理人。生前(小生、まだ生きてますが)に重ねてきた数多(あまた)の罪業をつめこんだ黒い袋を背負わされています。  
 十年も昔のことですが、私の母が他界する前、孫たちに以下を語ったとのことです:
「おばあちゃんが死んだら、水着を棺に入れてね。死んで仏になるには三途の川を渡らねばならないのよ。舟で渡るんだけど、渡し守にお金を上げないと、途中で意地悪をされるかもしれないのよ。でも、おばあちゃんは、お金は全部この世に置いてゆくから舟には乗れないの。でも仏にはなりたいから、仕方ないから泳いで渡るのよ」と。
 反骨心旺盛であった母を想い、そして無事に仏になれることを願って、確かに棺に水着を納めました。その三途の川にも、昨今渡し舟に替わり橋が架かったんですな。阿漕(あこぎ)な渡し守が死者達から指弾され、地獄の頭領たる閻魔さんが渡し守を馘首し、橋を建造することを英断したのやもしれません)
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 網の窓 四六時中に セミとまり 愛の絶唱 叫び居るなり

 当家の夏の風物詩であります。この時期、網戸に常時蝉が二〜三匹しがみつき、大声で、「求む!彼女」と叫んでいます。それも朝の五時前からです。ヤレヤレでありまするよ。

 二十数年前に他界した岳父の墓詣でに函館まで行ってきました。墓は函館で最古の名刹・高龍寺、函館山の東麓に在します。創建は西暦1633年とのことなので、成立間もない徳川幕府の威勢が充分には及ばない頃です。が、天台仏教は、津軽地方に拠した武家・豪族を通じて影響力を浸透させていたようです。

 多くの内地の商人、回船業者たちが北海道住民との交易で来道したけれども、帰国叶わず病などに仆れ、この地で没した人々も少なくなかったのでしょう。そうした人達の霊を弔うため、この寺が創建されたのだろうと思います。江戸幕府が北海道、当時の蝦夷地経営に大きな関心を示すのが田沼意次の時代です。江戸幕府にしてみれば十八世紀末よりの頻繁なロシヤ人の来道に神経を尖らせる時代でもありました。実際、この寺に隣接してロシア人墓地と小さなロシア教会があります。

 江戸時代の北方探検家としては近藤重蔵、間宮林蔵などが知られていますが、蝦夷の地に五回も足を踏み入れたのは山形県出身の最上徳内です。十八世紀末から十九世紀初頭の頃です。函館出身の作家・宇江佐真理が自著『たば風 蝦夷拾遺』で、この人物の来歴とその業績を詳しく書いています。この人物は数学を得意とし、江戸で著名な算術家に学ぶ中で、測量に強い関心を抱きます。宇江佐氏の本によれば、徳内は蝦夷の探訪で、当時の松前藩がアイヌの民をいためつけ、酷い収奪と残虐を繰り返しているのを見聞しています。それに、憤りを持っていたことから、あらぬ嫌疑を幕府からかけられています。

 岳父のご先祖さんがどういう経緯からこの函館に住むようになったのかは聞いていません。岳父は長ずるにおよび、北海道農業試験場の研究員としてそのキャリアを終えています。どうやら北海道米の改良研究に従事していたようで、なした子には、いずれも「穂」の字を当てていることから「米」への強い愛着が窺えます。

 私は40年ほど前の昔、北海道で五年程働きました。当時の農業関係者の大きな関心の一つが「北海道にうまい米」を作ることにあったようで、稲の改良から土壌の改良など様々な研究と工夫がなされていた時代です。当時の酒飲み仲間に北大農学部でまさにそれを研究テーマとしている若い助手がいました。普段は豪放磊落の好漢ですが酒飲むと「うまくない北海道米」との愚痴をクドクドこぼしていたことを思い出しました。北海道の名誉のために付言しますが、昨今の北海道米は本州のそれに劣りません。


+++++青森県北端
 折角函館まで来たので、帰途、青森県の恐山(おそれざん)に立ち寄ることとしました。この霊場の詳細はウイキなどを参照いただくことにして、ここでは旅の雑感を書きとめて置くことにします。
 本年三月北海道新幹線が開通したため、鉄路はおおいに変わり困惑しました。以前は函館・青森間の特急が津軽半島東岸の蟹田で停車しま。そこからフェリで下北半島に渡るのです。ところが新設の新幹線には蟹田なる駅は存在せず、津軽今別(津軽二股)駅で停車します。これは普通列車の蟹田駅の二つ手前です。蟹田に行くには、そこで鈍行に乗り換えねばなりません。その待ち時間がなんと二時間半です。駅は新設ですから、周辺には見物するところはないので、時間のつぶしようが無いのです。今夏一の酷暑の昼でした。周囲の豊かな緑を時間つぶしに散策する気分にもならず駅舎でボケーっと過ごしました。

 乗船客20数名、車十台程度とガラガラのフェリで津軽湾を横切り対岸の下北半島南西端の脇の沢につきます。そこでは、次の辛苦が待ち構えていました。むつ市中心部行のバスに乗るには一時間半待たねばなりません。かくして朝8時に函館を発ち、むつ市内の宿に辿りついたのが午後六時、延々十時間の旅でした。新幹線ならば函館―東京を往復できる時間です。

 マサカリの形をした下北半島の南西端から海沿いに東へ走るバスの車窓風景は「過疎」と言う感慨がまとわりつく一時間でした。美しい海、緑の林、そして豊かな流量の川、どれもが懐かしい風景です。しかし、子供、若者が見えない。実際、最西端の「脇の沢」地区にはいまや,小学校が無いのだそうです。後日聞くところでは、女性が少なく、「結婚産業(ビジネス)」が成り立たないとも聞きます。これでは、子供が出来ません。新幹線はこうした「過疎」に拍車をかけているかのようです。実際、昔は、蟹田駅からのフェリは満杯の人を下北半島に運んだと言います。

 (写真:宿から見る釜臥(かまふせ)山(標高878m、つくば山より1m高い)の東裾に沈む夕日。恐山はこの山の北方背後にある。太古の昔の噴火口跡と案内書は書く。TVローカル局が、恐山噴火の際の「東通・東北電力原子力発電所」への影響調査活動を報じていた。夕方なので鮮明には見えないが手前を田名部(たなぶ)川が右から左に流れている)
P806夕日

 
 翌朝、バスで恐山に向かいました。灼熱の太陽の下、恐山域に建つ菩提寺境内を見学した後、地獄の様相に仕立て上げられた寺域を周遊しました。そこには賽の川原、血の池、と銘打った「名所」が用意されています。
 北方原住民の宗教思想と後世の人間のそれへの畏敬、更には、これに遠く中東からの渡来族の信仰がない混じった風景、雰囲気を期待していた者としては、この観光化にはいささか失望しました。さらには、「イタコ」なる老女のたたずまいなどにも接したく思っていましたがそれもなりませんでした。恐山を仏教思想のみに基づく「霊場」に閉じ込めてしまうことは、日本列島の古代史と言う視点からも、見直すべきではなかろうかと思った次第です。

(写真:日本列島に渡来した人たちの渡来経路。本ブログでは北海道を経て本州にやってきた一族を議論している。東京新聞7月20日付記事より。)
P720古代


 実際、上の新聞記事にも見るように、遠く西域から渡来した人たちがこの地を通過したはずなのです(新聞記事右の地図で、「北海道ルート」と示されている)。その痕跡がどこやらに残っているはずです。恐山は宗教・精神史の現場です。だからこそ、そうしたもののかけらでも良いからとどめておいて欲しいものです。

 寺の域内の見物を結局一時間弱で全てを終え、あとは帰りのバスが来るまでの二時間、またもや待合所でじっと待機であります。今回の旅を一言で言うならば、「長時間待ちの辛苦」です。待っている間、同行した連れ合いは誰とでも気軽に話せると言う特技を生かして休憩所の係員などから色々な情報をかき集めてきます。

(写真:休憩所内に貼られた板。この施設がいわゆる「原発交付金」で作られたことを明示し、利用者にあまねく知らしめています。平成3年とある1991年は、東北電力と周辺漁業協同組合との保障協定成立の前年になる。さらには、事故を繰り返したため、あちこちで嫌われ、落ち着く先が無く日本列島の周囲をさまよった「原子力船むつ」の最終決着がついた年でもあります。むつ市内には、JR駅前の整備などにこの交付金が使われていることが明示されている。「あんたらは原発のおかげで快適な生活が出来てるんだよ」といわんばかりで押し付けがましいんですな。市内のとある食堂でそんな話が出ました。私が水を向けたわけでもないのに、住民はそのあたりをきちんと見抜いているので驚きました。)
P806原発2

 
 連れ合いが聞き込んだ情報に拠れば、昨今恐山界隈にはクマが増え、数日前に冒頭写真の三途の川橋の近辺で出現、恐山の寺域内ですら、ちょっとした潅木内でクマが昼寝していただとか、頻繁に出没しているのだそうです。ハイキング好きの士には恐山は格好のコースですが、現在それは大変危険であるようです。

 恐山訪問を終え、いよいよ帰宅です。まずは大湊線から野辺地を経て新青森駅に行かねばなりません。ところがこの日は東北地方の祭り「ネプタ」の当日です。車内はまるで東京の通勤電車の如き混雑です。一時間たちっぱなしで、ヘトヘトになりました。新青森駅で購入した「新青森・海鮮丼」(900円、これはお勧めです)と缶ビールを車内に持ち込み、なんとか生き返りました。

 さて、上にも書いたように、函館から青森にかけて、とりわけ恐山にはアイヌ族と西域からの渡来族の精神史のないまざった表現が散在しているのではとの期待がありました。それを見つけることは出来ませんでしたが、8月初旬の東北三大祭り、つまり仙台の七夕、青森のねぶた、そして秋田の竿灯こそがその表現ではないかと思っています。
 それに加えるならば、津軽今別の荒馬(あらま)まつりではなかろうかと思っています。これらの祭りの来歴は定かではなく、江戸時代に始まったなどの考証もあるようですが、私は、そこにいたる長い積み重ねあったに違いないと思っています。

 たまたま、津軽二股駅での二時間半、所在無げに駅で放映される「荒馬まつり」ビデオを眺めていました。馬役の青年と、それを調教する女性の踊りです。猛々しい馬の踊りから連想したのが北方に逃げたとされる源義経の姿です。思えば津軽二股から二つ北の駅が三厩です。ここは義経逃亡の痕跡をとどめる地とされています。以前も書いたように義経がジンギスカンであるかどうかはともかく、この人物の出自がモンゴル、西域であるとは私のかねての推論です。
 こうした想像に導くのが荒馬祭りです。ところで荒馬の馬は「バ」とオンします。そのように考えると荒馬は「アラバ」です。ここから連想するのが「荒吐」(アラハバキ)です。
これについて、ウイキは以下を書きます:
%%%%%ウイキよりの転載
偽書である『東日流外三郡誌』では以下のようにある。従って、アラハバキに関し、この節にあるものに類似した記述には一般に注意を要する。
「まつろわぬ民」であった日本東部の民・蝦夷(えみし、えびす、えぞ)がヤマト王権によって東北地方へと追いやられながらも守り続けた伝承とするもの。荒脛巾神(あらはばきがみ)ではなく「アラハバキカムイ」といい、遮光器土偶の絵が付されている(遮光器土偶は、『東日流外三郡誌』の地元である津軽の亀ヶ岡遺跡のそれが特に有名である)。また神の名だけではなく、民族の名としても使われ、蝦夷(えみし)という呼び方は大和朝廷からの蔑称であり、自称は「荒羽吐族」であるとしている。このため、神の名ではなく民族の名としてのアラハバキも一部に知られることになった。『東日流外三郡誌』では、アラハバキカムイは荒羽吐族の神々という意味の普通名詞ないし称号であり、具体的には安日彦と長髄彦であるとする説、いにしえの神で安日彦長髄彦と似た境遇(追放?放浪?)の神だったという説、イシカホノリ(「末代の光」という意味)という名の神であるとする説、死の神イシカと生命の神ホノリの二神であるとする説、などが出てくる。いずれにしろ『東日流外三郡誌』では、アラハバキというのは元は民族の名であって神の名ではなく、「アラハバキ族が信奉する神」という意味で後に神の名に転じたという認識になっている。
%%%%%
と、いうわけで、東北の祭りの背景に列島民族の精神史が顔をちたっと覗かせています。
(つづく)