(本ブログは月水金に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:朝の空に白線を引いたような飛行機雲)
飛行機雲1202


 まっすぐに 空に引かれた 白い線 もしやユーフォと 動きを見守る

 四・五年も前の事でしたが、某巨大掲示板で「ケムトレイル」論なるものをしきりに投稿していた御仁がいました。「空中に何やらの薬剤を散布する。それを吸引すると、人(ひと)は自らの頭で考える力を失ってゆく。これが“ケムトレール”(chem trail)。世界に新しい秩序を構築することを目論む特権グループが、圧倒的多数の人民を意のままに操って(奴隷状態という意)世界支配を達成する手段」とその人は主張します。 
 いわゆる「陰謀論者」です。この人にとってはあらゆる飛行機雲はこうした支配者の目論見に沿った「薬剤散布」行動と映ったようで、その都度、煙・雲の写真を投稿欄に貼り付けては大騒ぎしていました。久しぶりに見る飛行機雲から、そんなことを思い出しました。

 この御仁はそうした議論の中で”geoengineering”なるものを何処からか見つけてきました。これも「脳への薬剤」と思ったのでしょう。しかし、これは地球温暖化対策として米国の気象研究者が言い出したものです。「空中に太陽光線を反射させるような微粒子を散布し、それによって、太陽光を反射させる。結果として地上にやってくる太陽熱を減少させることが出来る」と言う主張です(2012年12月24日記事 ケムトレイル議論)。地球温暖化を熱心に言い立てる人は、大気圏のCO2を含む地球温暖化物質が人間の活動によって(anthropogenic)増大することが地球の温暖化の主因であるといいます。これに更になにやら得体の知れない物質を付け加えるというのです。私は胡散臭くトンチンカンな議論と思っています。

 トランプ当選の余波がおさまりません。トランプ当選を歓迎する人対しては”ネトウヨ”であるとか、“低学歴”であるとかなどの侮蔑的言が投げつけられています。私は”ネトウヨ”との自覚はありませんが、その一人と言うわけです。しかし、私は、そう宣まわる方々に「じゃあ、ヒラリ・クリントン氏は善玉なのか?」と問い返したいのです。氏は正に世界中を戦争に巻き込んでいる米国軍産複合体の代弁者です。個人的な「恨み、つらみ」ではありますが、2010年に民主党が衆議院選挙で大勝利を納め、首相に任命された鳩山由紀夫氏が「沖縄問題の解決で米国と筋の通った話し合いをする」と表明した際、「ジャップ奴(め)!」と口汚く呟いたとされる人物がクリントン夫人でもあります。

 さて、それはともかく、その 余波として、BSTV(プライムニュース)で誠に興味深い対談がなされました。それは下記のyoutubeに公開されています。
プライムニュース 
 これは経済学者の西部邁氏と日本共産党書紀局長の小池晃氏にキャスタの反町理氏が問うという形式で一時間余にわたって議論が進みます。論議の詳細は上記動画を視聴いただくとして、ここでは私自身の視聴の感想之一端を書き留めておきます。9月23日記事宇沢弘文で「二人の宇弘」なる記事を紹介しました。このうちのお一人宇沢弘文氏について、経済学の論客金子勝氏が、かって
金子勝Verified account ‏@masaru_kaneko Nov 5View translation
『宇沢弘文傑作論文全ファイル』(東洋経済新報社)を落手。「社会的共通資本」論を軸に、経済学の限界、環境、医療、教育、農村とコモンズ論などを体系的に追いかけています。思想家と呼べる経済学者が少なくなった今、読み返す意味は大きい。」

と、ツイートしています。
 西部氏の語り口と、西部氏も宇沢氏と同様車に乗らないという話からから宇沢弘文氏を連想した次第です。どうみても西部氏には、これまでの遍歴から「俗っぽさ」が付きまといますが、上で聴く氏の主張は明確です。教養の奥深さから医者である小池氏にはいささか重過ぎる相手ではなかったか、と観察しました。

 私は、かねてより西部氏の議論に惹かれるものがありました(2015年7月20日(日本の経済学者 ))。あるときは左高信氏、あるときは美人ソプラノ歌手・鮫島由美子氏と睦みあうなど、いささか俗っぽいのですが、しっかりと文献を読み、その上で自分の頭でそれらをしっかりと構成し、文字なり、言葉なりに変換してゆく能力を見せ付けられるのです。それを支えるのが強い「知的好奇心」です。とかく、昨今あちらこちらで見かける経済学者が「身につかない経済用語をまくし立てて何とか相手をやりこめよう」と言う議論とは違っています。

 この西部氏の議論を聴いて、更に連想したのが、偶々最近読んだ「政治家の本棚」(早野透、朝日新聞 2002)です。この本では朝日新聞記者であった著者が43名の政治家の「本棚」を語ります。西部氏についての私の観察に最も近い人物が上田耕一郎氏の本棚です。青年期の悩みと、知的好奇心がない混ざった読書遍歴に人間としての真摯さを感じました。驚いたのが氏は、左翼文献に自らを縛らないのです。「キッシンジャ回顧録」にまで目をひろげ、 さらには2010年代に小沢問題で大きく話題になった「日本権力構造の謎」(ウオルフレン、日本滞在が長いオランダ人ジャーナリスト)にまで目を通していたことに驚かされました。

 人が生きる支えの第一は「知的好奇心」つまり観察することの喜びです。自己愛、或いは自己中心的発想からは観察力は育ちません。そして観察された対象の挙動の謎解きをする喜びです。これは、先日ノーベル賞を受賞した大隅(おおすみ)良典(よしのり)栄誉教授(71)の言でもあります。他人様が言ったこと、書いたことを記憶するだけ、これは知的営みとは言いません。

+++++常陸国風土記(5)
 何時までも風土記の考察に立ち止まっているわけには行かないのですが、ついつい、「なんでだろう」との疑問が湧き上がり、寄り道をしています。前回、意識的にスルーした疑問があります。それは冒頭の「古老曰筑波之県古謂紀国」の件です。下の原文で右端です。
(図1:常陸国風土記・筑波郡の冒頭部分の原文)
筑波


 上記の件(くだり)は以下のように続きます(現代文):
崇神天皇之世に、采女臣の同属である筑箪命を紀国の国造にしたとき、筑箪命は「紀之国と言う国名を自分の名前に変えて後世に残したい」と望んだ。そこで、国の名を変えて筑波と称する事とした。
ウイキは以下を書きます:
%%%%%「紀伊」の名称と由来[抜粋] wiki,紀之国
 7世紀に成立した当初は、木国(現代の標準語・共通語表記:きのくに)であった。名称の由来として、雨が多く森林が生い茂っている様相から「木国」と命名された、という説がある。また、今の和歌山県北部が、有力豪族である紀氏が支配していた地域であるから「紀の国」というようになった、という説もある。実際に、律令制以前の紀伊国は紀伊国造の領土のみであり、熊野国造の領土(牟婁郡)を含まなかった。
 和銅6年(713年)に「雅字(良い文字の意)二文字で国名を表すように」との勅令が出された時、紀伊国と表記するようになった。現代の近畿方言では「木」(きい)、「目」(めえ)、「手」(てえ)のように、標準語・共通語における1拍語を母音を変化させて2拍語にする例が見られるが、木国も同様、もともと当地の発音で「きいのくに」だったため当て字して「紀伊国」とした、とする説がある[1]。逆に、「紀伊国」と書きながら「伊」は黙字で、後に「きいのくに」と読まれるようになった、とする説もある[2]。ただし、奈良時代の日本語の発音は不明の点も多く、はっきりしない。
沿革
 7世紀に成立した。
 紀伊国は歴史が古く、『古事記』には神武天皇が大和に入る時に紀伊熊野を通ったとされるなど、事実はともかく、奈良盆地を地盤とするヤマト王権から知られた国であった。王権は、海人集団を部民に編成する海部の設定を進めた。また、忌部の設定は「紀氏集団」の在地の祭祀権を揺るがした。しかし、部民の設定は充分に展開しなかった。王権はつぎに国造制の導入と屯倉の設定という方策をとった。
%%%%%
 実は、私はこのウイキの説に大きく影響されました。紀の国は「木」の国。とすれば筑波、筑紫、などは「筑』は「竹」を意味するので「竹」之国に由来すると考えていました。
 実際、中央アジアでは「竹」を見たことが無いという人が多いのです。十五年ほど前、仕事の都合でカザフスタンの研究者を一週間ほど日本に招待したことがあります。初めての日本とあって、その方は見るもの聴くもの何でも珍しく興味を持ちました。その中で特に忘れられないのが鎌倉の竹林でした(会合は鎌倉近くのホテルで開催されていたため)。竹が忘れられないと後日語っていました。中央アジアを経て日本列島に渡来した一族にとっても思いは同じであったかもしれないと想像したからです。

 しかし、前回書いたように「筑箪」が外来語である古代ペルシア語であるとするとその意味は「求める、探す、集める、蓄える』です。つまり、本隊に先駆けて未知の地を探り、情報を収集する人物であったことになります。そうとすると「キ」も外来語である可能性があります。
 
なんと“Kiya”(ラテン文字表記)は古代ペルシア語で「王」、支配者と言う意味なのです。話が見えてきました。つまり風土記・筑波郡の冒頭は以下のように読み取れるのです:
『本隊に先駆けてこの地に入った人物(「筑箪」)が、そのままこの地の「支配者」を任された。』
 つまり 昔、渡来族がこの地にやってきて、この地に本陣を構えた、との歴史事実を暗意しています。

 勿論原文に忠実であろうとするなら:
『王国があり、そこに「筑箪」が入り込んでそのまま「国造」すなわち支配者になった』とも読めます。このように読めば、それは奈良政権の手先が筑波之地を占領したという意味になります。しかし、これは、藤原不比等の風土記作成奨励をふくめ、日本列島の公然たる制覇の野望を隠したいとの意に反することのようにおもえます。

「筑箪」を古代ペルシア語とすればその意味は上記です。因みに「tuk」は古代ペルシア語では「見る」と言う意味です。筑紫、杵築、千曲、こうした地名には「見る」と言う行動が暗意されているのではなかろうかとも思っています。そういえば「目に付く」と言う表現が日本語にあります。そもそもの由来は古代ペルシア語ではなかろうか?
(つづく)