(本ブログは月水金に更新されます。コメントはryuuzaki_i@yahoo.co.jp へ)
(写真:馴馬城址・堀跡)
馴馬城址堀跡1668


 久方の 温(ぬく)い陽(ひ)射しに 誘われて 昔の戦場に 思いを馳せる

 この城址について馴馬城堀 (南北朝期の城跡とも)が以下を書きます。
%%%%%馴馬城址と春日顕国
 馴馬の集落の南端部に南東方向にのびる細長い台地に占地していますが、後世の大がかりな地形改変などにより城跡全体の構造は分かりづらくなっています。南北朝時代のはじめ、当時南朝方の拠点であった城は、暦応4年(1341)に「馴馬楯等引き退き候き」と記されているように、南朝方の戦線の後退が行われていました(「北畠親房事書」)また、その3年後の康永3年3月4日大宝城(西暦1344年、将軍は足利尊氏)から脱出した春日侍従顕国は、「馴馬沼田城」を占拠しここに兵を挙げましたが、常陸国宍戸荘の領主である宍戸安芸四郎(宍戸朝里)の軍勢により落城させられました。(「鶴岡社務記録」)なお、春日顕国はその4日後再び大宝城に兵を挙げましたが、間もなく下総の結城直朝一族により捕縛されて4月に京都で斬首されました。その後戦国時代に入り、土岐原氏により再興され利用されていたものとも推定をされています。(「龍ヶ崎市史 中世編」より)
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 ところで、今日はプレミア・フライデイです。40年近く昔、モスクワに居ました。勤務する研究所では、金曜日午後は誰も居ません。皆さん週末の買出しで忙しいのです。午前中には「生協」らしき移動店舗がやってきて、肉野菜を売って居り、所員はそれに群がって品定めをしていたことを思い出しました。

+++++地震の話
 米国科学雑誌上の記事「人工知能で地震を予知する」と言う題名の記事に関心を持ちそれを翻訳したために、世界の巨大地震の話が中途半端になっています。巨大地震の考察は、米国科学雑誌の記事と通底するものがあると思っています。地震を記述するに当っては、いろいろな”パラメータ“(地震特性を表現する記述詞)があります。震央、深さ、発震機構解、破壊様式等などです。これらのパラメタのゴチャゴチャとした細部にこだわらず、地球全体を一括して眺めると、何が見えるのか?巨大地震群の相互連関を示す”何か”が見えるかもしれないという「根拠レス」(コンキョless 和製英語です、根拠がないと言う意味)の期待です。なにやら「そう思えば、見えなくも無い」との感触を確認できました。しかし、このあたりが限界のようで、やはり地域的な傾向、あるいは深さなどの諸量にブレイクダウンするべきやも知れません。

 そんな作業をしていた矢先、東京電通大学の先生が地震予知に成功したという話がネットで騒ぎとなりました。2月19日の事です。手法については前回も紹介しました早川氏の地震予報 。 かいつまんで書くならば、地震は岩盤内のひび割れが、地圧によって擦れる。その際にひび割れ周辺に電位差が生ずる。電位差は、電流、つまり電子の移動を起こす。電子の移動は電磁波の生成です。そうして主ずる電波の波長が100km程度(ULF,Ultra Low Frequency)と早川氏は語ります。電波は地中から地表に染み出して大気圏、とりわけ荷電粒子がウヨウヨしている電離層に作用する。その結果、大気に散らばっていた荷電粒子の偏在をもたらす。これが電離層の変化である。その変化はFM波の伝播経路を変えてしまい、二点間の伝達時間を短くしたり長くしたりする。短くなった経路については荷電粒子の偏在帯が下降していることを意味する。

 これだけの物理機構がわかっているのであれば、モデルを設定して、数値シミュレーションが可能と思えるのですが、早川氏の話を聞く限りでは、20年間もの研究にも関わらず、それについての主張がありません。どうもモデル構築に成功していないらしいのです。岩盤内のクラックがどれだけ、どのくらいの大きさであれば、どれくらいの電磁波が生成されるのか、そしてそれが電離層の数kmほどの降下をもたらすに充分であるのか、と言った見積もりが出来ていないのです。つまり、現象の定性的解釈にとどまっており、定量的な検証ができていない、とは私の診たてです。

 本ブログでも2015年10月2日記事で早川氏の手法についてそのFS(Fail or Success)の成績表を掲載したことがあります(早川予報の当たり外れ )。これを見る限りでは予知の成功率は六〜七割と早川氏は自負していました。が、但しこれは、早川氏が主宰する「地震解析ラボ」によるもので、額面どおりには受け取りがたいのです。上記動画で、早川氏は自説に対する国民の認知度が低いと嘆いています。
 そうであれば、何よりも物理モデルによる検証が必要と思っています。れっきとした物理現象であるので研究室の大学院生などを督励してそうした検証を試みるべきと思っています。電波の送受信の乱れを引き起こす電離層の擾乱は、全て地下の地震にあるのでしょうか?私には、到底そうは思えない。太陽風(Solar window, 太陽から多様な荷電粒子が地球に飛んできている)の地球照射、海洋挙動、大気温度、地磁気変動など様々なものが影響を与えているはずです。そうした諸現象と電離層との相互関係はどうなっているのか?

 「予言したのに」地震が起きなかった。あるいは「予言できなかったのに」地震が起きてしまった、と言ったケースは、多々あった筈です。それらについても公開するべきでしょう。当然、研究者としてその原因解明作業をしているはずです。しかし、多分ビジネスにまで仕立て上げてしまっていますから、そうした非成功例の公開は難しいのかも知れません。

 2月19日に犬吠崎直下50kmでM5.4の地震が発生し、早川氏はその発生を予測したとジャーナリズムがはやし立てます。早川氏によれば、氏の手法は震源の深さは高々40km以浅と上記動画で語っています。あら捜しをする意図は無いのですが2015年10月2日記事で紹介した『FS成績表』には地表下500kmの地震も成功例に含めています。とすれば、なぜこの地震も成功例に含めたのか、説明があるべきなのです。そうあってこそ、地震予知作業の科学的な知見蓄積になる、それこそが「地震予知学」であると思っています。

 早川氏は、上記動画の冒頭で、「地震学」に対峙して「地震予知学」と言うものがあるのだ、と力説しています。しかし、その手法の背後にある物理学については、上に書いたように「定性的」説明にとどまり、それへの定量的裏づけが無い。その分、主張は『融通無碍』になり説得力を欠くことになります。それは「学」とはいえない。と思っています。

 2011年3月11日の東日本巨大地震の発生前、早川氏は同様の前兆を掴んでいたが、確証が無く公表を躊躇ったといいます。ところで、地震活動では、何がしかの前兆がほんとに無かったのか?電離層だけが東日本巨大地震の前兆をチラッとでも見せていたのか?との疑問が生じました。

 というわけで、3月11日前の地震活動が知りたくなりました。現在進めている巨大地震の話でも、興味深い事実を見つけたのですが、少し脇道に逸れさせてください。

 こうした関心に応える調査をネットでするのは、それほど手軽にはできません。なにより、希望に沿った地震活動図がネット上に用意されているわけではありません。そこで、気象庁のデータベース気象庁地震データベース を、私が愛用する無料科学計算ソフトScilabで作成したプログラムでもって調べてみます。

 気象庁の震源データによれば、2011年には、マグニチュードが負値(振幅の対数からそれは計算されるので、特に驚くことではありません)を取る極微小地震も含め、およそ30万個(309,506)の地震が登録されています。そこでその中からMが4.5又はそれ以上の地震を選び出すとその総数は2881個と激減します。つまり気象庁データベース全体の地震数の僅か0.9%に過ぎません。この大きな対照は現在の貧富格差問題と似てますね。地震現象では、まさに地震の大きさ分布が”べき乗則(Power law)”に従っていることなのでしょう。

 そこで、まずは、2011年1月1日から2011年3月11日14時47分までの地震活動を図1に示します。
(図1:気象庁地震データベースに見る2011年1月1日〜3月11日15時47分までの地震活動。黒丸が3月11日の巨大地震の震央。震央近傍域をのぞくと異様なまでの静けさが見て取れます)
201101-0311


 図2は、2013年10月26日空2017年2月20日までの同域の地震活動です。興味深い対照を見ることができます。尤も上の図はわずか二ヶ月強の期間であり、下の図はおよそ三年半の期間です。いずれ、詳細な対照に耐えうる図を本ブログに掲載します。
(図2:2013年10月26日のM7.7地震(黒丸)から2017年2月19日までの地震活動、Mが4.5以上の地震のみ)
s131026-170219

 図の比較から私が注目する一つは、“チバラギ”地震活動が311前には全く見られないことです。その他、論議したい点が多々あります。いずれ紹介します。
(つづく)

+++++行方の役(5)
 福島県の南北ほぼ中央に、日本のウイーンとも称される郡山市があります。あの大震災の前には、しばしば世界の名演奏家がこの地を訪れるためにそのように呼ばれるのだそうです。残念ながら2011年3月11日の福島第一原子力発電所の事故による放射能汚染でこの地も生活全般にわたって深刻な打撃を受けています。私の親類も多く住まう地であり、住民の健康と生活の安全を切に願っています。

 この地には、安積国造神社と言う古社があります。この神社から概ねシリウス方向にあるのが安達太良山(標高1709m37.6212260,140.286664)です。そこで、この二つの場所の位置関係をまずは、計算して見ます:

-->exec('C:\FR55G_B\SCI_lesson\dms2d.sce', -1) 度・分・秒から度への変換プログラム
dms=[37 23 55.61]= 37.3988安積国造神社位置緯度(ウイキ http://c23.biz/cCBM より)
dms=[140 22 55.19]= 140.3820安積国造神社位置経度(同上)

 これを用いて、二点間の位置関係を算出します:
exec('C:\FR55G_B\SCI_lesson\cl_delazm.sci', -1) 二点間の距離・方位算出プログラム
epi(lat,lon)=[37.6212260 140.286664]  安達太良山位置緯度、googl map より
sta(lat,lon)=[37.3988 140.3820]  安達太良山位置経度、googl map より
Dlt,Azm,Bzm= 0.23(距離、度) 161.19(方位) 341.25 26.1 (距離、-km)

 算出で得た161.2度と言う値は誠に興味深いものがあります。私のシリウス星年代決定表に随えば、西暦620年代ごろ、ここに渡来族は陣屋を設営したと推定できます。
(表:2016年6月8日記事、シリウス年代表 )
シリウス暦150303


 但し、この陣屋は、後年破壊され、改築されたことが現在の神社境内配置の拝殿の向きからわかります。その時期は、祟神天皇によって東北日本に派遣された四道将軍大毘古命と建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)が会津(相津、「岩波文庫・古事記」、104頁)で出会った頃であろうと考えています。つまりそれは七世紀末ではなかったろうか。
(図3:安積国造神社境内。拝殿の向きが反シリウス方位を取っている)
安積国造無題


 この時期の推定については、異論をなす方も多かろうと思っています。私の論拠は前回書いた古事記・日本書紀における、神代から神功皇后紀までの“時間逆転” (2015年3月9日記事記紀の叙事・時間の逆転)です。祟神天皇の説話は、編纂に携わった藤原不比等にしてみれば、現代の直前、いわば近代史のようなものなのです。

 奈良の藤原不比等統括の東夷征討(東国野蛮人征服)軍は、最大の難敵が陣する常陸国をまずは回避して、現在の郡山とその北域の攻略をしたのです。その際に、渡来族の精神的支えでもあった陣屋を破壊したと考えています。その一環が安積国造にあった陣屋の破壊です。しかし、後述するように、この陣屋跡は「鎮魂」のために、後日建造されなおしたのです。しかし、元通り復旧したのではありません。『霊』が蘇ることを妨げるべく参道を「逆シリウス」方位に向けたのだろうと考えています。

 同じ、設計思想がこの神社のすぐ東の総産土阿邪訶根神社(そううぶすな あさかねじんじゃ)にも見ることができます(2011年10月17日記事総産土阿邪訶根神社)。それを理解する鍵が両方の神社が名称に持つ「アサカ」です。「ア」は何度も書きますが「火」、「明」を意味する「アピ、アビ、アベ、アメ」に由来します。そして「サカ」は渡来族の出自、すなわち遠い西域、ペルシャです(2月日記事夜刀神=ヤズドで地図を付しました)。彼らはゾロアスタ教を信奉する。つまり「拝火教」です。

 ここに陣屋を設営した理由が「安達太良山」です。つまり火を吹く神聖な山から、シリウス星の方位に現在の安積国造神社の地にまずは拠点を設営したと思われます。
「安達太良山」の「タタラ」、これは「鉄」を連想させます。実際、安達太良山系には「鉄山」(標高1709m)が、隣接しています。「タタラ」も古代ペルシア語に見ることができます:「tatahhor」(タタオール)は「清浄」と言う意味です。つまり、鉄を含む鉱石から雑物を取り除くという意味でしょう。鉱石について「コトバンク」は【鉄鉱石 iron ore】 コトバンク(鉄鉱石) は以下を書きます:
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 鉄の原料として用いられる天然の鉱物で,鉄と酸素とからなる酸化鉄と総称される化合物と,シリカSiO2,アルミナAl2O3などの酸化物からなる脈石とを含んでいる。通常は高炉内に投入して酸化鉄に結合している酸素とその他の脈石分を取り除き,鉄分を溶けた状態の銑鉄として取り出し鋼の原料とする。
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 鉄は人類文明に多大の影響を与えたことは多くの研究者が指摘しています。したがって「タタラ」も異なる由来があるのかもしれません。「たたらを踏む」の語源が金属精錬の際の「送風しかけ』である鞴(ふいご)の弁を足で交互に踏むことです。ここから、勢いつけて走っていたのに急に止まらざるを得なくなる場合の表現ともされます。

(図:安達太良神社の参道に明瞭に認められるシリウス星方位)
安達太良神社無題


 鉄の産出を重視した渡来族は、安達太良山の東麓にそのための施設を作ったのでは無かろうかと考えています。それが2月17日記事で書いた「アータシュキャデ」であり、現在の安達太良神社であろうと考えています。神社を紹介する前に、2月17日記事のその部分を再掲して置きます:
%%%%%2月17日記事紹介アータシュ=安達 
それでは、ここからはヤズド州内にあるゾロアスター教関連の見所についてお話しすることにいたしましょう。まずは、ヤズド市内にあるゾロアスター教神殿です。ここは、ペルシャ語でアータシュキャデ、即ち火の家とも呼ばれ、(以下省略)
%%%%%
 既に書きましたが、アータシュキャデの「アータ」が「アダタラ」の「アダ」の語源であることは明らかです。安達太良神社に祀られる神は誠に興味深いのです。
安達太良神社
%%%%% 安達太良神社HPより
御祭神
高皇産靈神 神皇産靈神 飯豊和氣神 飯津比賣神 陽日温泉神 彌宜大刀自神

福島県本宮市にある。JR本宮駅の北東1Kmほど、阿武隈川の西岸の菅森山と呼ばれた丘の上に鎮座。鳥居をくぐり、木々の鬱蒼とする階段を登ると東向きの社殿がある。
当社は、北西15Kmにある安達太良山(1700m)を遥拝する神社なので、正確には、社殿は南東向き、参拝者は北西を向く配置なのかもしれない。参道の階段脇や、境内の右手に幾つかの境内社がある。境内左手の道を進むと、本社の裏側あたりに古峯神社があるが、他の境内社と少し趣が違う。本殿は屋根で覆われた流造。
安達太良山嶺に鎮座の、
甑明神(飯豊和氣神)・船明神(彌宜大刀自神)・矢筈明神(飯津比賣神)・剣明神(陽日温泉神)と、
安達太良山支嶺大名倉山に鎮座の宇奈己呂別神(高皇産靈神・神皇産靈神)を、久安3年(1147)現在地に勧請したのが創祀。
「甑」とは古代の蒸し器のこと。安達太良山が湯気のような噴煙を上げていたことからその名がついたようだが、延喜式記載の飯豊和氣神社が、この甑明神であるといい、公式にではないが、式内社と見る説もある。
参道階段脇には、風神社(足尾様)、津島神社(天王様)、金刀比羅神社(こんぴら様)、貴船神社(蛇神様)。
境内右手には、
天満宮(天神様)、熊野大神・疱瘡神・大山祇神・稲荷大神、天照皇大神などがある。
%%%%%
 上に転載した神社の由緒を眺めてください。私が注目したのが:
安達太良山嶺に鎮座の、
甑明神(飯豊和氣神)・船明神(彌宜大刀自神)・矢筈明神(飯津比賣神)・剣明神(陽日温泉神)

 一節です。矢筈明神が祀られているのです。常陸国・風土記行方郡の条で登場する氏が神として祀られています。すなわち「箭括氏麻多智」です。この人物については以前書きました。箭括は青い草原であり、「麻多智」はヤズドの火を祀る神殿であると。長々と、福島県の話を書いてきた理由が実はこれであったのです。まさに「箭括氏麻多智」は「安達が原」の意でもあったのです。
(つづく)