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(写真:栗の実がつきはじめました)
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東電の 三幹部には 重過失 素人検事 勇気の議決

(写真:8月1日付け東京新聞一面記事)
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 本日のブログ記事のトップは、「原発再稼動で電気料金は値下げできる!」なる産経新聞記事を取り上げるはずでした。昨日、福島原発事故時の東京電力幹部の刑事責任を問う「検察審査会」の議決が公表されました。というわけで、急遽記事を差し替えました。
 
 福島県民を最大の被害者として、あれだけの甚大災害を引き起こしたのが東京電力とそれを強力にバックアップしてきた政府・経済産業省にある事は明らかです。被害たるや生命・健康に留まらず、生活基盤である農業、畜産業、水産業にまたがる未曾有の規模です。
 しかし、検察庁は「想定外の自然災害がその原因であったのだから東電などに「刑事責任」を問えない」として、東電・経産省への家宅捜査すらしていません。しかるべき経緯を明らかにしないまま、不起訴決定をしてしまったのです。2012年末には、国会調査委員会がつぶさに事故の原因を精査してましたから、検察がその気になれば、起訴できるだけの材料が十分に存在していたのです。

 検察審査会なる制度の思想・原点は「冤罪の可能性が大である被疑者を刑事裁判から救済する]ことにあったのだと思います。しかし、2009年に始まった陸山会事件などから、むしろ「犯罪者をつくりあげる制度」に変貌しつつありました。
 しかし、今般河合弁護士等はこの検察の武器でもあった審査会の性格を逆手にとって、大企業・政府権力の犯罪追究の手段に変貌させようとしています。今後の推移については予断を許さないとしても、権力が設定したいかなる制度といえどもも、国民の側が「両刃の刃」として活用できる言うことです。

 報ぜられている理由を読む限りでは、東電側の瑕疵・怠慢が指摘されています。それを前提として「想定外」なる逃げ道が東電にはありえないと指摘しています。これで再度検察は判断をせねばなりません。国民目線で、これまでの「不起訴」を転換するのか、どうか。この議決をどのように処理するのでしょうか?

+++++北緯37.2度線王国(飯豊(5))
 日本書紀は、飯豊皇女が暫定的に天皇位にあった際に拠したのは忍海角刺宮であると書きます。日本古代史を専門とする学者先生方は、この宮廷が古代奈良盆地の西縁葛城山の北東麓と信じて疑いません。
 福島県とその周囲には、標高2105mの高峰・飯豊山(いいでさん)を始めとして飯豊(または飯土用)なる地名があちこちにあるのですから、せめて、この地の飯豊姫とのかかわりぐらいは調べてしかるべきと思うのです。

 愚痴はさておき、前回忍海角刺宮の忍海は猪苗代湖であり、角刺宮は鉾衝神社であると考えると、この地に飯豊なる地名が多いことと整合することを書きました。しかし、このことが分かってくると、又色々な疑問が湧いてきます。これは「科学の営為」と言う作業と同じです。一つのことが分かると、そこから新たな「何故」が浮かんできます。

 まずは、「鉾衝神社」と言う名前、これは、どうやら出来すぎと思えるのです。いずれ書きますが、飯豊皇女を担いだ一族(高・サカ一族)が常陸国鹿島から日本列島の太平洋側を陸伝いに九州にたどり着き、鹿児島、そして島原半島「高来」を経て現在の佐賀平野に渡来、万葉集一歌を叙事します。どう見ても、この時点で彼らが「漢字」に習熟していたとは思えない。当然、彼らが岩瀬国に拠していた際にも漢字を使いこなせてはいなかったでしょう。
 とすれば、この場所は、もともとは「鉾衝」(または角刺)と同義のアイヌ語で呼ばれていたのではなかろうか、と私は想像しています。とすると、誰かが、後世にこの神社にこうした難しい漢字を当てはめた、のだろうと思っています。この[角刺]はアイヌの「クマ祭り」に関係した神事ではなかろうかと考えています。

 藤原不比等は飯豊姫の宮廷が「鉾衝」(または角刺)と同義のアイヌ語で呼ばれていた事を知っており、日本書紀編纂では「角刺」宮と書いたのでしょう。そうなると、それが、岩瀬国にあっては、自らの編纂する古代倭国史観に整合しません。そこで、後日この場所を「鉾衝」とするよう、国造に命じたのだと考えています。

 さて、次なる疑問です。何故、この地に陣屋を設けたのか?実は重大な設問です。
 答えは、簡単でした。ここは天栄山と同じ緯線にあります。つまり天栄山の真東に設営されているのです。真東、それは春分、そして秋分に太陽が昇る方位です。天栄山と鉾衝神社の位置関係は「太陽崇拝」を暗意します。つまりアイヌの信仰体系です。

 太陽信仰を示唆するのが、7月21日に書いた幾つかの直線状配置です。しかし、そこでは、下図に見るように東西の直線配置は明示されません。しかし、その方位は、シリウス星ではなく、太陽に関わっている事は明らかです。それを再掲します。
hoko_kam01

 この図で、gが鉾衝神社です。この神社を三本の方位が貫いています。

(1)鬼面山(c)からの方位です:
c→g→i鉾衝神社 D=13.3295(km),A=107.2107,B= 287.2979
  岩淵神社(城址) D=19.1646(km),A=106.609,B= 286.7347
  av=106.9099,dev=0.18102(大変小さい値は高い直線性を意味する)

(2)高土山(d)からの方位です:
d→f→g→h岩瀬国造神社(長沼) D=4.0099(km),A=116.5245,B= 296.549
  鉾衝神社 D=8.6368(km),A=116.299,B= 296.352
  磐女神社 D=10.6261(km),A=116.7471,B= 296.8121
  av=116.5231,dev=0.1004(上同様、高い直線性)
 ところで、岩瀬国造神社の緯度では、夏至日の日没方向は300.08度(冬至の日の出方位は120.02)となります。しかし、上の計算では、神社から高土山を4度だけ日没方位から西にずれた位置にあります。この4度のずれが、大変気になっています。何故なら、古代人といえどもその角度測定精度はきわめて高いのです。この4度のずれには何がしかの意味がこめられているのだろうと思います。
 後日、書きますが、この方位は、須賀川市内の神炊館神社(かみおたきあげ神社)の参道の方位とピタリ同じです。大変に重要な事実と思っています。

(3)基準点・妙見山(a)から、
a→g→i→l鉾衝神社 D=9.0402(km),A=157.2878,B= 337.3117
御座(飯豊) D=13.8899(km),A=154.5169,B= 334.5578
     東長峰 D=21.2466(km),A=154.6938,B= 334.7559
 平均値と偏差: av(平均)=155.4995,dev(偏差)=4.8127(比較的大きい値は、直線性が良くないことを示す)

 さて、上図に示される鉾衝神社を貫く3つの方位で、比較的「シリウス星」の方位と近いのが上記の(3)です。しかし、その角度は155度でシリウス年代を当てはめると九世紀後半(貞観地震の起きた頃)となります。この方位の謎を解く鍵が「東長峰」にあります。

 茨城から福島にかけて「長峰」と言う地名が多いのです。長=塚(チョウと音する、墓所の意)、峰=豊(高)と置き換えると、これは豊(高)族の墓所(塚)であることがわかります。九州を舞台とした壬申の乱で放逐された高(豊)一族が東北日本に逃げ延びたのです(2013年7月頃の一連の本ブログ記事参照)。そして、この地で無念の死を遂げた人々の墓所です。同様の地が茨城県南部、利根川北岸、あるいは、現在のつくば研究学園都市に存在しています。そしてその時期は九世紀末。つまり奈良政権による東国憎しの東征です。この東征を日本書紀は「服従(まつろわぬ)しない蝦夷討伐」と書きますが、それは古代史の陰惨な事実の隠蔽であったと思っています。

 ところで、上で私は「豊(高)」と書きました。これは「飯豊」の「豊」の謎を解く鍵を提供しています。これについても多くの古代史研究者が諸説を開陳していますが、どれも説得力がありません。それは福島県の古代史を軽視するところから来ています。

 いずれ、詳述しますが、大方の説では、「豊」の由来を卑弥呼の後を継いだ女王[台与]に求めます。そしてこの[台与]に「トヨ」なる音が付されてしまったことが「ボタンのかけちがい」であると私は考えています。これはそもそもは[高]なのです。この漢字の発音をローマ字で表記すると「kho」です。のどの奥から「コ」の発声を強く息を吐き出してすると、それは「ホ」とも聞き取れるのです。そこに付け込んだのが藤原不比等です。日本書紀編纂事業で、各地にのこる「高=コウ」を「ホウ=豊」に置き換えてしまったのです。序に飯豊の「飯」について書き続けたいところですが、それは次回にします。

 何はともあれ。東国魂は粘り強く奈良政権に反抗したであろうと考えています。これについては高橋克彦氏の著作なども参照しながらいずれ考察します。

さて、ここで考察したいのが上記(1)、(2)、とりわけ(2)です。

(つづく)